Interviewee Profile
黒田望。1992年生まれ。14歳で骨肉腫を発症。右大腿部を切断、大腿義足になり身体障害者手帳3級を取得。16歳で骨肉腫が右股関節に再発。片側骨盤離断、股義足になり身体障害者手帳2級になる。17歳で右肺に転移、18歳で左肺に転移し手術。22歳で定時制高校へ入学。24歳時卒業。その後教育機関でグラフィックデザインを学ぶ。障害者雇用枠を利用して現在就労中。
小児癌の発症…そして闘病生活へ
さて、まずは黒田さんの病気や障害の事を伺っても宜しいですか?
黒田:はい。自分の病気は簡単に言うと小児癌です。子供の時に発症する癌ですね。最初に発症したのは中学2年生の頃だったので、生まれつきの先天性では無く、後天性の病気です。
癌に犯された箇所が膝付近だったので、最初は「あれ?成長痛ってこんな感じか」くらいにしか思っていませんでした。
成長痛ですか。笑 そうなると、最初は激痛って感じではなかった?
黒田:そうですね。確かに痛くはあったんですけど、うずくまるほどの痛みではなかったですね。
実際にその後1ヵ月間は放置してましたからね。笑
1ヶ月の放置ですか….。結構長いですね。笑 となると気になるのは、病院に行こうと思ったきっかけです。どんなきっかけがあったんですか?
黒田:そこは今でも忘れられない実際のエピソードがありますね。笑
12月の寒い時期だったんですけど、友達といつものように学校から帰宅する最中だったんですね。
もちろん学校から出て、10分くらいはなんともなかったんですけど、友達と別れた後に膝に激痛が襲ってきました。
いつもは5分で帰宅できる距離だったんですけど、その時は30分以上かかりましたね。足をひきづりながら帰宅しました。
流石にこれは何かやばいんじゃないかと思いまして病院に….まだ行かないんですね。笑
まだ行かないんですね。笑
黒田:はい。笑
ただ、流石にもうやばいってなってそれから2週間後くらいに接骨院に行きました。
そこで、鍼治療やアイシングをやって貰ったんですけどあんまり良くならなくて…。
鍼治療をして頂いた先生にも「病院へ行った方がいいかもねぇ…。」なんて言われたので、そこで初めて家の近くにあるお医者さんを受診しました。
ようやく病院へたどり着いてよかったです。笑 ここまで来るのにインタビューも30分以上かかりましたね。笑 すみません、続けましょう。
黒田:はい。笑
紆余曲折を経てなんとかたどり着いた町医者だったんですけど、そこでレントゲンを撮ったら、お医者さんの顔色が変わったんですよね。
そこで、母親だけ呼ばれて深刻な話をしていたのをよく覚えてます。
そして、先生と親の話が終わると「今からすぐに大きい病院を受診してください。」と言われ紹介されたのが、神奈川県立子供医療センターだったんですね。
子供医療センター。懐かしいね。笑 僕らが初めて会った場所だね。同じ病室だった。
黒田:そうだね。笑 懐かしい。
(※ この後1時間以上、思い出話に浸ったのだが、ここでは割愛する。)
小児癌の再発と2度の転移
さて、思い出話しに花を咲かせた所で、少し思い出したくない話もして頂けると助かります。
闘病生活の中で辛かったことってありました?僕がそばで見てるイメージだと抗がん剤治療の時は相当辛そうだったよね。
黒田:そうですね。抗がん剤治療は本当にしんどかった。
抗がん剤治療って3パターンのローテーションなんですよ。その中でも最もやばかったのが、赤い点滴を入れる治療。笑
具体的に何がやばかったですか?
黒田:基本的に治療スパンは長くないんですけど、その赤い点滴が入ると独特の風味がして気持ち悪かったですね。尿も赤いのが出る…。
なるほど…。黒田君の治療は結構見てきたつもりだったけど、それは知らなかった。闘病生活の中で一番辛かったことはそれですか?
黒田:いや….。確かに抗がん剤治療もめちゃくちゃ辛かったんですけど、やっぱり小児癌の再発と肺へ2度癌が転移したことですかね。これが一番しんどかった。
そのあたりをもう少し深掘ってお聞きしたいです。小児癌の再発についてもう少し教えて頂けますか?
黒田:はい。先ほども少し触れましたが、僕の癌は膝から太ももに掛けて発症したものだったんですね。だから足を切断したんですけど、太ももより上の足は残ってる状態だったんです。
しかしながら、ある日股関節への癌の転移が見つかりました。
股関節へ癌が転移してしまうと、もう足が少しも残らないんですね。
根元から切断しなければならないので。
そうなると義足の形も全く違うものになります。しまいには「今後義足を付けて歩くことは難しくなると思う。」と主治医から言われたりもしました。
更に、股関節周りへの癌の転移で手術ができず亡くなった方の話を聞いていたので、結構な絶望でしたよね。辛かったです。
辛いリハビリの中で見えた希望
なるほど…。その癌の再発を自分の中で昇華できた瞬間、受け入れることができる瞬間ってありました?
黒田:ありましたね。
本当にいくつもそんな瞬間はあったんですけど、明確に自覚しているのは辛いリハビリの末に歩けた瞬間ですね。医者からは「もう歩けないよ」って散々言われてたので。
最初は義足自体もプロトタイプでオムツのような感じでした。
「本当にこれで大丈夫か?笑」とも思ってたんですけど、実際に歩けるってことがわかった時は自分の中で病気や障害を少しだけ受け入れられた瞬間でしたね。
最初は平行棒を利用してしか歩けませんでしたが、徐々に平行棒無しでも歩けるようになりました。
その時に、どれだけ時間が掛かっても諦めずに自分を信じてやり続けることの大切さを学びました。
大変でしたね…。色々と困難を乗り越えて自分と向き合う時間が長かったからこそ、今の黒田君があるんですね。
小児癌からの復活…、イマ伝えられること
何か経験を通して、健常者の方や同じ病気の人に伝えたいことはありますか?
黒田:そうですね。
健常者の方に伝えたいことは2つあります。
まずは病気や障害は誰にでも急に訪れる可能性があるということです。
実際に僕自身も中学校2年生までは健常者だったので。
だから、街でもし松葉杖をついている人が居たり、車椅子の人が居たら「早く移動しろよ!」と言わずに見守って欲しいです。
次に、何か身体に異変があったらすぐに病院を受診することです。
僕も異変に気付いた時すぐに、病院を受診していたら切断レベルが浅くすんだかもしれない。または人工関節などで代替できたかもしれません。
症状が浅く済んだかもしれない。と考えると、自分と同じ失敗を誰にもして欲しくないというのが願いです。
今、小児がんで苦しんでいる人や義足をつけてリハビリ中の方に伝えたいことってありますか?
黒田:そうですね。義足をつけている人に向けて…ということになるのですが、社会に出たら義足への配慮はそんなにないです。
義足って言うとスポーツ義足をイメージされる方が多いので「スポーツ義足を付ければ走れるんでしょ?」と言われることが結構あります。
しかしながら、切断レベルによってはそういった義足が付けられない人もいると思うので、その辺りの誤解は自分で解くしかない….と思ってます。
不十分なバリアフリーに対するRepeL.
RepeLでは、”社会への怒りや不満、反発、意見”などをテーマにしています。障害者として生きる中でそのような感情があったらぜひ聞かせてください。
黒田:ぶっちゃけいっぱいありますね。笑
今日もここに来るまでにありました。
結論から言うと、駅から地上に上る際、やたらと速度の速いエスカレーターがあったんです。それに怒りましたね。笑
僕は歩く時に松葉杖を利用しているので、エスカレーターが速いと合流が凄く難しいんです。
エスカレーターを遅くして欲しいとは思いませんが、明らかに速くするのも辞めて欲しいです。笑
そういったバリアフリーが少しづつ改善されると嬉しいです。
ありがとうございました。最後に何か言い残したことや「これだけは言っておきたい!」というような事はありますか?

黒田:そうですね….。特に….。あ!!
この記事を読んでいる方は「ヘルプマーク」をご存知ですか?
僕自身実際の利用者としてこの「ヘルプマーク」を広める活動をしていきたいと思っております。
このRepeLでもヘルプマークについての記事を寄稿しているので、ぜひ読んで頂けると嬉しいです。
(※ 黒田執筆の記事はこちらからご確認頂けます。)
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