生体肝移植を受けてから9年が経とうとしている。
あの時の不安や葛藤、そして少しの希望を抱いていたことも。その全てが昨日のことのように思い出される。
この記事では、僕が生体肝移植を受けた時の体験を基に、術前術後どのような症状に悩まされ、そしてどのように生きてきたのかを紹介したい。
どうかこの記事が、『これから生体肝移植を受ける人』『生体肝移植と戦う人』、『2次障害に悩む人』に届いて欲しい、そして「感情的な進歩」があることを心から願っている。
先天性胆道閉鎖症と向き合った幼少期・少年時代
僕は、生後2ヶ月で胆道閉鎖症が見つかった。その後16歳になるまで、この病気と向き合うことになる。
その間、胆道閉鎖症という病気が原因で良かったことも悪かったこともあった。
この章では、16歳で生体肝移植を受けるまでの体験をつづりたい。
先天性胆道閉鎖症とは
まずは胆道閉鎖症について理解してもらいたい。
胆道閉鎖症とは肝臓および胆管が正常に機能しない肝硬変の一種だ。(参考:1
この病気は、生後間もなく発症する病気であり、原因は未だわかっていない。
この病気を発症している人は現在日本に3500名ほどいる。
胆道閉鎖症の遺伝性は不明だ。しかしながら親子や兄弟に発症している例はあり、全くないとは言えない状況なのだ。
胆道閉鎖症の症状
胆道閉鎖症が悪化すると、初期症状として黄疸を発症する。
黄疸とは、白目の部分が黄色く変化し、ひどくなると身体までもが黄色く変色する。そこまで進行すると、眠れないほどに身体にかゆみが発生する。
この症状は、十分に肝臓機能が果たされていないバロメーターの役割を担っているのだ。
胆道閉鎖症の治療法
胆道閉鎖症が進行すると、入院して治療をおこなう必要がある。
基本的な治療法としては2つ。
①食事制限(約2週間〜1ヶ月ほど食事をすることができない)
②抗生剤投与(ステロイドなどの点滴療法)
上記2つを入院しながらおこなうことで、症状を抑えることができる。
この病気が厄介なのは完治しないというところだろう。
治療するたびに、症状は落ち着くがすぐに症状が悪化し、何度も何度も入退院を繰り返すことになる。
実際に僕自身、生まれてから16歳を迎えるまでは、ほとんどの時間を病院で過ごした。
日々病気の悪化に怯えながら生き、症状が悪化するたびに食事を取ることができずストレスに悩まされる。10歳を迎える頃には胃に4つの穴が空いたほどだ。
この病気を完治させるためには、肝臓の移植をする他にないとされている。
胆道閉鎖症が原因で辛かったこと
胆道閉鎖症が原因で辛かったことは主に3つある。
①飲食ができないストレス
②ステロイド治療による副作用
③家族への負担
まず、先に記述した通り、飲食ができないストレスは相当なものだった。
実際にあったエピソードを紹介しよう。
症状が悪化し、入院を余儀なくされて3週間後にどうしても空腹に耐えられず、歯磨き用の水を大量に飲んでしまった。
その時のことは今でも鮮明に覚えている。
3週間飲まず食わずで、限界だった。そんな時に唯一飲食に触れられる機会が歯磨きの時だけだったので僕にはその水がまるで、砂漠の中にあるオアシスの水のように見えたのだ。
当然、病気の進行を悪化させることになり、入院が長引いてしまったのだ。
その時は、怒られもしたしもちろん大きな自己嫌悪に襲われた。
しかしながら、10歳の僕にはどうしても我慢できなかった。
どこにも感情をぶつけることができず、ただただ一人で泣くことしかできなかった。
次に、ステロイド治療による副作用も僕を苦しめた。
ステロイド治療を経験したことのある人にはわかると思うが、副作用によって太ってしまいニキビが身体中に発症する。
ここでもエピソードを紹介しよう。
当時、病院の1人部屋(個室)に入院していた。13歳の頃の話だ。
この頃、胆道閉鎖症の症状が著しく進行していた。
当然学校に行くことはできず、多くの時間をこの個室で過ごした。
症状の悪化を防ぐために、大量のステロイドを投与した結果、僕の顔はあまりにも肥大化し、ニキビに覆われまるで別人のようになってしまったのだ。
思春期を迎えたばかりの僕には、到底受け入れることのできない現実だった。
この個室を一歩出ると、「誰かに笑われるんじゃないか」「どこかで僕の噂をしているんじゃないか」そんな風に考えるようになってしまい、気がつけば僕はこの個室から出れなくなっていた。
当然卑屈になった僕は、家族や看護師にあたりちらかすようになり、心無い言葉を発するようになった。
次第に人は離れていき、どんどん卑屈さを加速させていくことになったのだ。
その中でも、いつも気にかけてくれる看護師の人が居た。
その人にだけは、なんでも話すことができた。
しかしながら、それも長く続くことはなかった。
ある日、ナースステーションで看護師長とその人が話す光景を見た時に、ある会話が聞こえた。
会話の内容は、僕の担当をすることが辛い。というような内容だった。
当時の心境としては、本当にショックだった。
「僕が生きてるだけで、不幸になる人を生んでしまっている。」そんな思いを昇華できなかった。
最後に、家族への負担を紹介したい。
病気が原因で、入退院を繰り返す子供がいることは家族にとっては強烈な負担になる。
当然、家族の状態にもその影響は出てしまった。
「僕のことは諦めて、僕の兄や家族のことを大切にしなさい」と親戚一同から両親が言われていた事実を知っている。
この事実を知ったのは13歳の頃だ。僕にとっては人として何か大切なものを失った瞬間だった。
しかしながら、その中でも僕の病気と向き合ってくれた両親が居たからこそ、感情の回復に向かえた。
家族にはとても感謝している。
胆道閉鎖症で生まれてよかったこと
ここまで、胆道閉鎖症を患ったことが原因で辛かったことを記述した。
ご理解頂けたのであれば、とても嬉しい。
しかしながら病気を患って生まれてきたことで良かったこともあった。
それは、かけがえのない仲間との出会い。そして、出会いの中で育んだ多くの学びだ。
病院の中にいると、色々な病気を患った人との出会いがある。
脳に障害を抱えている人、足が無い、手が無い、そして耳が聞こえない、目が見えないといった症状を持つ人達だ。
もちろんそれぞれに症状は違う。しかしながら、それぞれが自分の病気と向き合って、戦う仲間なのだ。みんなそれを言わなくてもお互いわかっている。
病院にいる時だけは、心が休まった。
誰かの症状が悪化した時には、本気で悲しみ、そして治った時には本気で喜んだ。
僕は、入退院を繰り返す生活の中で「共感力」を養ったと思っている。
それはとてつもない学びであり、現在僕の歩みにも大きく影響している。
同時に、「感謝する力」もここで学んだ。
僕の病気と向き合ってくれる医者や看護師、病院スタッフ、家族や仲間。
それらは、最もリスペクトする対象であり、若くして偉大な「しごと」に触れることができたのだ。
生体肝移植に挑む
15歳を迎えた頃、胆道閉鎖症の症状はピークに達していた。
この症状を放っておいたら、あと半年も持たないかもしれない。と言われたほどだ。
相変わらず病院と自宅を行き来する生活の中で、精神状態は疲弊しきっていた。
そんな時、母から言われた一言が僕の人生を大きく変えることになる。
…この章では、実際に生体肝移植を受ける前、そして術後の経過について記述したい。少し長くなるが、読んで頂けるととても嬉しい。
生体肝移植とは
生体肝移植とは、生きている健康な人(ドナー)から肝臓の一部を取り出し、患者(レシピエント)へ移す(移植)手術のことだ。
よく脳死肝移植(脳死と診断された方から、善意で肝臓の提供を受ける手術)と比較されることが多い。
生体肝移植のドナーには、6親等以内の血族、3親等以内の姻族(配偶者ならびに配偶者の3親等以内)の範囲内の人であればなることができる。
その他にも、ドナーになるための条件はいくつかある。
生体肝移植のドナーになれる人の条件
【自らの意思でドナーになることを決意した人】
誰かに強制をされることなく、自らの意思で肝臓の提供を決めた人でなければ、ドナーにはなれない。
実際に僕のドナーは母親だったが、手術が行われるまでに何回も肝臓提供の意思確認の場が設けられていた。
当然、ドナーにもリスクはある。それを踏まえた上で自ら意思決定をすることが非常に重んじられている。
【年齢が成人以上であること】
原則として、成人以上でなければ、肝臓を提供するドナーになることはできない。
さらに、肝炎などの症状を患っている人もドナーになることはできないのだ。
体験記、生体肝移植の術前
先に記述した通り、胆道閉鎖症の症状によって僕の肝臓は回復不可能な状態まで進行していた。
このまま進行すると、半年以上はもたないと言われたほどだ。
僕はその事実を知った時「もしこのまま死んだなら、もう誰にも迷惑を掛けずに済むんだ。良かった。」という安堵の気持ちが込み上げてきた。
しかしながら、そんな思いを吹き飛ばすような1本の連絡を母親から知らされた。
「心配して家に連絡をくれたお医者さんがいたから、話を聞きに行こう」というものだった。
正直その時は、精神的に狂ってしまっていて嬉しいとか悲しいといった感情は無かった。そんな状態で話を聞きに行くことになる。
【人生の大きな転機】
外来の待合室に通され、僕と母は呼ばれるのを待っていた。
すると僕らの名前が呼ばれ、診察室へ入るとそこに先生が座っていた。
「辛かったな。俺が助けてやる」という言葉が先生からの第一声だった。
僕ら家族は、前の病院で手術は出来ないと言われていた。その反動もあってか、母が泣いていたのを覚えている。
そんな母を横目に僕が抱いた感情は「少しの不安と大きな希望」だった。
僕はもう何年も学校には行っていなかった。正直勉強もほとんどしたことがないし、コミュニケーションだってどうやって取っていいのかわからない。
それでも僕は生きたかった。この世の中で自分の可能性に挑戦してみたかった。
勉強を一生懸命してみたかったし、スポーツもしたかったし、誰かを愛してもみたかった。
そんなことを思って気がつくと、僕も母の隣で涙を流していた。
体験記、生体肝移植の術後
大掛かりな準備の甲斐もあって手術は成功した。
生体肝移植の術後には合併症を起こし再手術になったりもしたが、手術から半年ほど、リハビリを重ね人並みに歩けるほど回復した。
その後ICU(集中治療室)から一般病棟への引っ越しも無事終了し、退院の日を迎えることになる。
正直この頃になると「不安」よりも「希望」が勝っていた。
長年切望していた普通の生活(あたり前のように学校へ登校し、勉強に励むような)に想いを馳せていたのだ。
【そこにあったのは希望ではなく非情な現実だった】
退院して1ヶ月ほどで学校への登校が叶った。
あたり前のように勉強して、友達と遊んで恋もして…。
そんな学校生活に憧れを抱いて学校生活をスタートさせるも、そんな希望は長く続かなかった。
1日に何度も保健室に行き、体育の時間は見学。そして勉強が全く出来ない僕に待っていたのは強烈な劣等感と周りからの非情な声だった。
学年で最も低い評価であるE評価を取ってしまい、あげくには「お前は動けないからサッカーではボール役だ」と言われて蹴られたこともある。
靴の跡が制服のワイシャツに付いてしまい、泣きながら洗い流して乾くのを待ったことは今でも強烈なトラウマだ。
ここで、僕は伝えたいことがある。
『病気が原因で何かが出来ない』ことは周りには受け入れては貰えない。ということだ。
正直、色々な状況を受け入れて貰えると思っていたが、それは僕のエゴだった。
誰も僕のバックグラウンドには興味がないし配慮する気もない。『今何が出来るのか』しか考慮されないのが現実だ。
【生まれて初めて生きがいを持った】
そんなことが半年ほど続き、僕は生きる希望を失っていた。
あれだけ切望していた当たり前の生活がこんなにも辛いとは夢にも思わなかった。
中学時代の勉強がすっぽり抜けているため、いくら勉強してもすぐにはできるようにはならないし、その度にバカにされる日々。
そんな状況の中で、次第に学校から足が遠のいていった。
しかしながら、僕に人生2度目の転機が訪れることになる。
ある日、同じ病気を持った人たちを集めた交流会への招待状が届いた。
正直、そこに参加する気力もなかったが、それを見かねた母が無理やりにでも参加させようと思ったことがきっかけで、参加してみることにした。
行ってみると100人ほどの人数が居てとても緊張したのを覚えている。
徐々に会は進行し、無事終了を迎えようとする時、あるお母さんと4歳くらいの少女が僕に話をかけてくれた。
「私たちはこれから生体肝移植手術をしようと思ってます。正直不安だったけど、君のように病気を乗り越えて、元気な姿を見たらとても希望が湧きました。ありがとう」という内容だった。
その当時、劣等感に押しつぶされそうだった僕にとって、人生で初めて誰かに必要とされた体験だった。
その日から僕には夢が出来た。
「今は想像すら出来ない。毎日をバカにされることに怯えながら生きることで精一杯だが、いつの日か同じような障がいや病気で苦しんでいる人に必要とされる人でありたい」と。
当時、16歳の僕にとっては夢というほど具体的なものでもなかった。
正直、当時何も持たない僕にとってはとてつもなく大きすぎる夢だったからだ。
【夢は次第に目標になった】
生体肝移植を受けてから9年。僕はあの日から想いを馳せていた夢を現実にしようと行動している。
数多くの困難は確かにあった。何度も何度も現実逃避を重ね、言い訳を重ね、弱い自分と向き合うことができない日々の連続だった。
しかしながら、この夢に対してだけはいつも誠実に向き合っていた気がする。
毎日、あの日のことを忘れたことはない。
その甲斐もあって、次第に夢は実現すべき目標へと変化していったのだ。
イマ、解決すべき課題
あの日から歳を重ね、今では25歳になった。
見違えるほどに、元気になり社会へ少しずつ馴染んできている。
自分をコントロールする術を身につけ、病気とも向き合えている。
当時を思い返すと、本当に幸せな日々だ。
そんな余裕もあってか、同じように身体障害を持つ人々との交流機会を持つようになった。
そんな状況の中で、僕はある課題に気づいてしまった。
自分の障がいを昇華できずに苦しんでいる人が沢山いるという事実だ。
そこには病気や障がいが原因で起こる『自信喪失・自己否定』という大きな課題が存在しているのだ。
僕自身もその課題に直面したことが何度もある。
直面する度に「どんなにバカにされても、自分だけは自分の可能性を信じなきゃいけない。胸を張れ。胸を張れ。胸を張れ…。」と何度も何度も自分に言い聞かせた。
そんな自分自身の体験もリンクした僕は、病気や障がいが原因で陥る「自身喪失・自己否定」という課題を解決したい。そんな風に思っている。
・参考リスト
参考1: 難病情報センター『胆道閉鎖症』